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佐々木 誠(ささき まこと、1965年10月3日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者、野球解説者。より福岡ソフトバンクホークスの3軍打撃コーチを務める。 == 来歴・人物 == === 現役時代前半 === 水島工業高校時代は投手だったが、打者としての才能を見込まれて、1983年のドラフト6位で南海ホークスに外野手として指名を受け入団。4年間プレーして通用しなかったら野球をやめるつもりだったという〔週刊ベースボール、2002年3月11日号、P.39〕。1年目は高校生気分が抜けきらない面があった〔週刊ベースボール、1989年2月27日号、P.37〕ものの、山本一義や長池徳士らコーチ陣のもとで厳しい練習を積み〔、2年目のには早くも一軍で54試合に出場。 4年目のには6月30日の対日本ハム戦でリーグ10人目となる2試合連続初回先頭打者ホームランを達成する〔朝日新聞、2006年4月27日付朝刊、P.17〕など、レギュラーとなって125試合に出場し、リーグ9位の打率.288を記録している〔。は初めてオールスターゲームに出場した。夏場にダイエーへの球団売却が決まり言葉にできないほどショックを受けた〔ものの、同年の大阪球場最後の試合やシーズン最終戦でともに本塁打を放つなどの活躍で人気選手となっていった〔。さらにオフの日米野球では翌年から本拠地となる平和台球場で同年のワールドシリーズMVPのオーレル・ハーシハイザーから本塁打を挙げている。ダイエーホークスのユニフォーム発表会では加藤伸一とともにモデルを務めるなど注目を集め、監督の杉浦忠からも全国区のスターになれると評された〔。なお、新ユニフォームの写真を用いた垂幕広告が博多駅の井筒屋の壁面に飾られていた。 約80%の大幅増の年俸3,200万円(推定)〔読売新聞、1988年11月26日付朝刊、P.19〕となり、結婚もして〔週刊ベースボール、1989年2月27日号、P.36〕迎えたはハーシハイザーから打った本塁打のイメージを引きずり、長打を狙って打撃のバランスが崩れ、打率が.235と大きく悪化し三振も激増した〔。翌は2番打者を任されたがバントやエンドランなどを打席で考えすぎてパニックに陥ったという〔週刊ベースボール、1994年3月28日号、P.116〕。後に打順は1番に変わり、同年はリーグ最多の33二塁打を記録し、日米野球では21打数9安打の活躍で敢闘賞を受賞した〔Sports Graphic Number、1995年6月8日号、P.72〕。は初の3割となる打率.304を記録し、1番打者ながら21本塁打を放った。また、初のゴールデングラブ賞とベストナインに選ばれている。 前年の成績で自信を付けた〔Number、1992年7月5日号、P.30〕、は念願だったという開幕戦での初回先頭打者アーチを達成し〔毎日新聞、1993年2月8日付朝刊、P.17〕、オールスターゲームでは第3戦で北別府学からソロ本塁打を放つなどの活躍で優秀選手賞を受賞した〔読売新聞、1992年7月22日付朝刊、P.21〕。同年は の広瀬叔功以来NPB史上2人目となる首位打者と盗塁王の同時獲得〔を達成し、前年に続いてゴールデングラブ賞も受賞など、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。なお、同年の平和台球場における対西武戦でレフトへの打球がワンバウンドして外野フェンスと上部の金網との間に挟まり、三塁まで到達したもののボールデッドのため二塁に戻るよう塁審から指示が出されてベース上でへたり込んだシーンがプロ野球珍プレー・好プレー大賞で取り上げられた。オフの契約更改では3,300万円増でチーム最高となる年俸9,800万円(推定)となっている〔。 は前年苦手にしていた渡辺久信から開幕戦で猛打賞を記録する〔読売新聞、1993年4月11日付朝刊、P.24〕など好調なスタートを切ったが、5月22日に打撃練習で右肋間筋に挫傷を負い、一軍登録を抹消された〔朝日新聞、1993年5月27日付朝刊、P.21〕。同年のオールスターゲームでは第1戦で決勝点となる本塁打を含む3安打を挙げ、好返球による補殺もあって優秀選手賞を受賞している〔読売新聞、1993年7月22日付朝刊、P.21〕。レギュラーシーズンでは3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインを受賞した一方この年から本拠地になった福岡ドームの広さにチーム全体で苦しみ佐々木も本塁打はわずか7本に終わる。オフに秋山幸二、渡辺智男、内山智之との大型トレードで村田勝喜、橋本武広とともに西武ライオンズに移籍し、2,200万円増の年俸1億2,000万円(推定)で契約を更改している〔読売新聞、1993年12月4日付朝刊、P.23〕。このトレードに際しては、チームが求めている長打力のある左打者で〔読売新聞、1993年11月17日付朝刊、P.21〕、かつ秋山と同等の守備能力を持ち〔読売新聞、1993年11月17日付朝刊、P.22〕、年齢が若くFA権取得まで2年ある点〔などが西武側から評価されたという。一方、佐々木は自分が唯一尊敬する外野手である秋山とのトレードという点で驚いた〔が、リーグ4連覇中の強豪に移籍する事を前向きに受け止めたという〔週刊ベースボール、1994年3月28日号、P.117〕。秋山については1年後にFA宣言して移籍する可能性も指摘されており、村田と佐々木という若い主力を獲得した西武側にメリットが大きいトレードだとも言われた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐々木誠 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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